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はまさか日記~澄風荘しょうふうそう~

兵庫県浜坂温泉・カニソムリエの宿・澄風荘の主人・スタッフが、但馬の文化や歴史、山陰海岸ジオパークのPR、浜坂の四季折々の魅力をお伝えしていきます。

山名氏と竹田城 竹田城の歴史

但馬の歴史 観光スポット 竹田城

山名氏の末裔は、東京に在住されておりその資料館の開設準備にも関わられていたが、会館の所有者のご高齢による死去のため、閉館のままである。

山名氏は、一時はこの但馬を中心とした日本の66ヶ国の6分の1を治める大守護職であった。応仁の乱の西軍の総大将であった山名持豊(宗全)の時代、竹田城は築城され、家老であった太田垣光影が初代城主となった。

応仁の乱 有力大名の権力抗争から将軍の跡目争いへ

竹田城は、守護大名だった山名持豊(宗全)が重臣である太田垣光景に命じて築城されたとされている。 その後、応仁の乱が始まると山名宗全は、西軍の総大将につき陣を構えたところを西陣と呼ぶ。(織物の産地の由縁)応仁の乱は、管領畠山氏と斯波氏両家の家督争いを端緒に、山名宗全と細川勝元の権力争いでさらに深刻化していく。

このような状況の中、八代将軍足利義政は面倒な将軍職を退き、弟の義視を無理矢理に九代将軍につかせようとし、細川勝元にその後見人を委ねた。

しかし、翌年正妻日野富子に男子が生まれ、富子は我が子である義尚を将軍にすべく、山名宗全に後見人を依頼した。

管領家同士の家督争いから始まり、有力大名の権力抗争から将軍の跡目争いに発展してゆき、応仁元年の正月、畠山政長を畠山義就が襲撃して始まった。

政長には細川勝元が、義就には山名宗全がそれぞれ後援して、各地の守護大名が呼応して11年にも及ぶ戦乱は、京都から地方へと波及していった。

山名家の衰退

応仁の乱後、山名宗全は死去し、やがて時代とともに山名家は衰退の道を辿ることになるが、城主は引き続き太田垣氏が留まった。

孫の山名政豊のころには、山名氏の権威も低下して太田垣氏もすんなりと出陣に従わなくなっていた。

豊臣秀吉(羽柴秀吉)の但馬攻め

山陰の勢力は室町末期になると、毛利氏の台頭もあり益々山名氏の衰退は進み、織田信長軍による豊臣秀吉(羽柴秀吉)の但馬攻めにあうことになる。

その後、山名家は豊臣家に従う。

山名氏は紆余曲折はあったが、徳川との関係も新田一族として存続が許され幕末までつづく。

戦国時代も終わりに近づくと毛利氏、織田氏の対決色の間、天正8年羽柴秀吉軍が但馬の国に侵攻し、但馬の城はさしたる抵抗もなく次々と攻略され、竹田城には秀吉の弟小一郎秀長が城代となっり、太田垣氏の支配は終わりを迎えた。

一方、因幡山名氏の山名豊国は秀吉に降伏するが、豊国の家臣森下出羽守と中村対馬守は従わず、橘川元春に請いて城主に吉川経家を城主に迎え、秀吉軍との徹底抗戦に及ぶ。

芦屋城主 塩冶周防守 鳥取城の飢え殺し

新温泉町浜坂にあった芦屋城も但馬山名氏の滅亡後秀吉軍の秀長に抵抗して、相当手古摺らせるが、城山に続く秘密の道を絶たれ、落城の憂き目を見ることとなる。

しかし、芦屋城主塩冶周防守は逃れて、鳥取城へ入り、吉川経家とともに秀吉軍と戦う。

世に言う鳥取城の飢え殺しである。

城主吉川経家は自刃して、城は落ち塩冶周防守も出城の丸山城で切腹する。

屈指の城郭「竹田城跡」

屈指の城郭「竹田城跡」その2

豪壮な山城遺構「竹田城跡」

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