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はまさか日記~澄風荘しょうふうそう~

兵庫県浜坂温泉・カニソムリエの宿・澄風荘の主人・スタッフが、但馬の文化や歴史、山陰海岸ジオパークのPR、浜坂の四季折々の魅力をお伝えしていきます。

浜坂で育った加藤文太郎 加藤文太郎のことその4 

いよいよ遭難が確実視されると、新聞各紙は見出しに様々な表現で加藤文太郎の遭難を報じました

「国宝的山の猛者槍に消える」「不死身の加藤文太郎槍で遭難か」等々です。

 捜索は1月7日から行われたが、二人の手がかりは何もないまま、1月17日で打ち切られることになりました。

2.加藤文太郎の系譜 

 加藤文太郎は明治38年3月11日、新温泉町浜坂の浜岡、加藤岩太郎・よねの四男として生まれました。

他に姉が二人。長兄は早世されたため、次兄善蔵氏が実家の跡を継ぎました。

加藤文太郎は、幼少の頃、病気がちで、文太郎という名前が悪いということで、林太郎と名前を変え「りんちゃん」と呼ばれておりました。

その後、文太郎はすくすくと育ち、実家は漁師だったので、家業の手伝いで相当足腰は鍛えられていたと思われます。

大正8年3月、浜坂尋常高等小学校高等科を卒業して、神戸市の三菱内燃機製作所(現三菱造船所)に製図修習生として入社いたしました。

夜間の神戸市立兵庫実業補習学校卒業に続き、大正12年には兵庫県立工業学校特別科工業化を全期間皆勤賞で卒業されました。

この頃から神戸徒歩会の人たちと六甲山を始め、山歩きをするようになりました。

また、兵庫県下の国道・県道を歩き始め、歩いた区間を赤鉛筆で地図に印をつけて全区間制覇しました。

大正15年3月、神戸工業高等専修学校電気科の修業3ヵ年の課程を卒業します。(現在の神戸大学工学部にあたる)

このように7年間も、働きながら勉学に励み、翌年には三菱内燃機株式会社の技手に昇進しました。

山登りを始めた当初は、夏山ばかりで、地下足袋がトレードマーク、地味な登山スタイルで生涯を通しました。

質実剛健、但馬人独特の生真面目さ、粘り強さに加え、頑強な身体能力で、単独行へと必然的に進んで行きます。

昭和2年頃から藤木九三氏の主宰するRCCに参加して本格的な登山をするようになる。DSC01879.jpg

 

 

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