はまさか日記~澄風荘しょうふうそう~

兵庫県浜坂温泉・カニソムリエの宿・澄風荘の主人・スタッフが、但馬の文化や歴史、山陰海岸ジオパークのPR、浜坂の四季折々の魅力をお伝えしていきます。

三菱社員としての加藤文太郎 加藤文太郎のことその8

昭和4年の八ヶ岳の山行では、無人の山小屋にただ一人立てこもり、破れた障子穴から吹き込む吹雪に身ぶるいしながら元旦を迎えた時の手記をRCCの会報に次のように報告している。その抜萃の一文です。

「今日は元旦だ、町の人々は僕がもっとも好きな餅を腹一パイに喰い、いやになるほど正月気分を味わっていることだろう。僕もそんな気分を味わいたい。ふるさとにも帰ってみたい・・・それなのに、それなのに、なぜ僕は唯一人で、呼吸が布団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかりを食って、歌を歌う気がしないほど淋しい生活を自ら求めるのだろう」

これを藤木九三氏は、「いわゆる名家の紀行とか、気どった山の登攀記など比べものにならないほど迫るもの、心打つものがある。」「これを誰が、安価なセントメンタルだなんていって貶しうるだろう」

加藤文太郎は、山登りのためにしばしば休暇をとっていましたが、それは自らの休暇の範囲内だし、仕事は完ぺきにこなし、何も問題にもならないが、その理由がさまざまで、良心の珂碩の念に自らとらわれることがあったそうです。

文太郎の母親は、彼の山登りを大変心配する人でしたが、その心配は、文太郎が山で遭難したらではなく、山登りのため、彼が時折会社を休むからでありました。

あるとき、父親の病気が重く、見舞いに郷里の浜坂まで帰るため、何時ものように休暇届を提出していると、ある同僚がやってきて、「加藤くん、君の父君は山の中で療養しているのかい」と、皮肉とユーモアを交えていうのです。そう言われても仕方ないことで、以前にも父親の病気を理由に山行のための休暇届を出したことがなかったと、言えなかったからです。      

しかし、山以外のことでは勤勉で、真面目な加藤文太郎は様々な功績を残し、昭和9年遂に技師に昇進します。

尋常高等小学校の学歴で、三菱の技師になるのは本当に稀なことでした。

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