はまさか日記~澄風荘しょうふうそう~

兵庫県浜坂温泉・カニソムリエの宿・澄風荘の主人・スタッフが、但馬の文化や歴史、山陰海岸ジオパークのPR、浜坂の四季折々の魅力をお伝えしていきます。

三国志(11) 孔明泣いて馬謖を斬る

劉備玄徳は白帝城に丞相の諸葛亮孔明を招きこう述べられた。「丞相は馬謖を重用しすぎるが、馬謖は言が実を上まっている」

その後、蜀軍は魏に攻め入り、孔明はその先鋒の大役に馬謖を抜擢した。

 

街亭の主戦場に先に陣を進めた蜀軍は、川の畔に陣を構えず、高所が有利と頂上を目指した。

 

佐将の王平は、再三にわたって麓に陣を布くべきだと馬謖に諫言したが、聞き入れてもらえず。「そんなに麓に陣構えをしたければ、其処もとだけがやれば良い」、と馬謖に言われ、止む無く王平は山の麓に陣を布く事になった。

 

遅れて街亭に到着した魏の張郃は、蜀の陣が麓になく頂上にあることを確認して、魏の勝利を確信した。

 

二三日かけて山の麓を掘っている魏軍を見て、頂上の馬謖は、笑いを堪えていたが、水の補給路を止められた、と分かると青くなった。

 

暗闇の中を馬謖軍は山を降りて、逃走を始めたが、魏軍に追跡され、多くの兵士を失うことになった。麓に陣を構えた王平は、夜陰の中を魏軍の後方から強く太鼓を叩く、と張郃は、蜀の伏兵がいると思い追撃をゆるめた。

馬謖が全滅を免れたのは、王平の遠謀に依るものであった。

馬謖は本陣に還ると、孔明に書簡を送り、敗戦のすべての責任を厳罰をもって償うことを明らかにした。

 

多くの者たちは、孔明馬謖の関係は親子以上のものがあり、厳罰は予想外であった。

諸葛亮孔明は公正と公平に厳格な人であり、そのことは馬謖もよく心得ていた人でした。

 

壇上から馬謖の処刑を見守る孔明の眼に、一筋の熱いものが流れたのを人々は見たであろうか。

カニソムリエ宮城谷昌光氏の三国志を読んで

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