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はまさか日記~澄風荘しょうふうそう~

兵庫県浜坂温泉・カニソムリエの宿・澄風荘の主人・スタッフが、但馬の文化や歴史、山陰海岸ジオパークのPR、浜坂の四季折々の魅力をお伝えしていきます。

戦後70年に・・・・・・

宿日記 余部鉄橋・鉄道駅情報

戦後70年を迎えて

今年は戦後70年にあたり、8月15日には記念行事も行われた。それとは別に国会では安保法案がおおずめを迎えている。国会前ではこの法案に反対の為のデモが行われている。

 戦争は誰しもが良いとも思っていないのは当然なことであるが、70年前は「戦争」「疎開」と言う言葉が現実の身に迫ったリアルな言葉だったのです。
 

 今日、疎開と言う言葉は遥か記憶のかなたにある。もし今の時代に戦争が起これば、疎開などと言う悠長なことも言っていられない。
 

 そんなことを考えていると、4年前、東日本大震災があった年こんなブログを書いたことを思い出したので、もう一度紹介しました。
 

疎開の思い出

先日、現在お住まいの横浜からはるばる山陰の浜坂まで一人の紳士がやってこられた。60数年ぶりのふるさと浜坂である。
 駅から記憶を辿りながら町並みを歩くと、その頃の思い出が次々と脳裏に浮かぶと言う。銭湯屋の息子、近所の石屋の息子、近くの床屋のおじさん、その頃には華やかだった映画館等々。山陰本線浜坂駅には給水塔もあり、機関車の回転台もあったそうである。
 夏になると浜坂の浜辺では塩作りが始まり、その手伝いは大変辛かったこと、川口ではうなぎがよく釣れたこと、余部鉄橋の上を歩いて渡り叱られたことなど思い出は尽きない。
 終戦の年の3月、大空襲下の東京から疎開先の浜坂に親戚を頼ってやって来た少年は、小学三年生を終えたばかりだった。その時分は3月も終り頃になっても周りには雪が沢山遺っていたそうである。空襲から逃れるため夜の東京は明かりを灯すことが出来なくて、田舎の商店街や街並みの明かりがとても鮮やかに思われたそうである。
 その紳士の60数年ぶりの思い出話を聞きながら、疎開という使い慣れない言葉が、この度の東日本大震災で現実味を帯びてくるのがあまりにも哀しい。