はまさか日記~澄風荘しょうふうそう~

兵庫県浜坂温泉・カニソムリエの宿・澄風荘の主人・スタッフが、但馬の文化や歴史、山陰海岸ジオパークのPR、浜坂の四季折々の魅力をお伝えしていきます。

再度山(ふたたびさん)善助茶屋跡地と加藤文太郎

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「毎日登山発祥の地 善助茶屋」の冊子

 昭和53年に編集された50頁の「毎日登山発祥の地 善助茶屋」という冊子があります。(善助茶屋跡を保存する会)誰に頂いたものか、今ははっきりした記憶はありませんが、加藤文太郎に関係した方には間違いありません。

 

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 毎日登山とは

明治の半ば,神戸に在留していた外国人たちが六甲の山歩きをするようになり,やがて E・H・ドーンを中心とする外国人たちによって毎日登山する習慣ができた。ここ善助茶屋には 登山者のサイン帳がおかれ,登山仲間の社交場として賑わったといわれ,毎日登山の発祥地となっている。

発祥の地コレクション/毎日登山発祥の地

こうした登山の習慣が神戸の市民に広まり、「神戸徒歩会」に発展していったそうです。

この年の8月に、500名近い人たちの浄財で、善助茶屋の跡地に記念碑が建立されたときの記念冊子です。

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 善助茶屋は大竜寺参道の下の方にあったお茶屋の一つで、明治三十八年(1905)頃在神外国人北野から範多坂(注:ハンター坂)を登ってここ善助茶屋にサインブックを置いて署名する習わしをつけたことから、登山仲間の社交場として賑わったといわれ,毎日登山の発祥地となっているいます。

冊子を読むと外国人の名前、「ウィルキンソンの炭酸水」「テラスで香り高き紅茶とトースト」「ユーハイムの洋菓子」など、他の「おでん」くさい茶店ばかりの中でひとあじ違って(冊子より引用)エキゾチックでハイカラな雰囲気であったことが窺えます。

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再度山(ふたたびさん)

神戸は市民登山の発祥の地と言われていますが、そのメッカが六甲山の中腹にある標高400メートル程の再度山で、そこには大龍寺と言う寺があって、高野山の別院の格式のあるお寺です。

 

804年空海が入唐する前この山に入り、長い船旅の無事と学問成就を願い、無事帰国後再び入山してその感謝をしたところから、この山の名前の由来とされるそうです。

 

 「孤高の人」のイメージとは違う加藤文太郎

冊子によると、この大龍寺のすぐ近くに善助茶屋があって山登りを楽しむ大勢の人たちが集まって、にぎわっていましたが、その中にも若き日の加藤文太郎がいたことも窺えます。

 

加藤文太郎と歳が近かった多田繁治さんの思い出話には、「B・k・V時代堡塁岩トレーニングのあと、文さんと立ち寄った」と、あります。

 

加藤文太郎の山の先輩で、ブナを植える会の創設者の津田周二さんは、「R.C.Cの集まりには山の計画の相談所になっていて、暇な時には永い時間居座って、その頃はトランプが盛んで、加藤文太郎がやってくると、彼の好きな「ノートラ」(ブリッジに似た遊び方)を必ずやったものだった。」と、書かれています。

 

加藤文太郎と言えば新田次郎の『孤高の人』のイメージが強く、「単独行」という登山スタイルから他者と交わらない人物のように思われています。

 ですが、こうした加藤文太郎と交流のあった人々の実際の言葉を見るとそうしたイメージとは違った別のリアルな加藤文太郎の姿が浮かび上がっています。

以前にもブログに書かせていただいたきましたが、小野照美さんのはがきにもあった「新しいトランプを買ったからやりましょう」などから、新田次郎氏の小説のモデル「孤高の人」の加藤文太郎イメージをやはり一新させますね。

 

文芸作品や映画のモデルになると、その実像は作者の創作により大きく書き換えられる ことは多々あります。

創作とはその作者の思想や主張したいテーマを実現させることが目的なのでそれはそれでよいのですが、現実の実像を伝えるものではないということだと思います。

加藤文太郎とその仲間たちの交流が、登山の一般市民への普及に一役買ったのかもしれません。

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