2月に入り春も近づいて参りましたが、澄風荘ではまだまだ松葉ガニシーズン真っ盛りです。
かにの風味って独特で、他の食べ物では味わえない独特の旨味がありますよね。
松葉ガニ(ズワイガニ)の旨味成分にはグルタミン酸、イノシン酸、アデニル酸があり、甘味のグリシン、アラニン、苦味のアルギニンと、これらの成分がバランスよく合わさることであの「カニ独特の風味」が生まれます。
今回はズワイガニの旨味の秘密について生化学的な観点から考察したいと思います。
(と言っても高校の生物を履修した方ならよく知っている内容だと思います)
エネルギーの通貨=ATP
三大栄養素の炭水化物、タンパク質、脂肪はアセチルCoAの合成に利用され、クエン酸回路に組み込まれATP産生に使われる
私達生物は食べ物を摂取してエネルギーを得て生きています。
呼吸というのは一般的に酸素を吸って二酸化炭素を吐くことを言います(外呼吸)が、生物学的には内呼吸と言ってグルコース(糖)を基質として細胞質基質やミトコンドリアでATP(アデノシン三リン酸)という高エネルギーを貯蓄する物質を合成することを意味します。
炭水化物、タンパク質、脂肪として摂取された食物はアセチルCoAを経てクエン酸回路に組み込まれることでATP産生されます。細胞内のミトコンドリアではクエン酸回路や電子伝達系という酸化過程を経て大量のATPが合成されます。
By Fvasconcellos, RegisFrey, ふわふわ (modification of File:CellRespiration.svg) [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons
高校の生物でもクエン酸回路の各反応は必須なので覚えていますが、解糖系の各反応は試験前に覚えては忘れ…覚えては忘れ…の繰り返しですねw
タンパク質からアミノ酸への分解にはオートファジーによるものも含まれます。飢餓状態ではタンパク質もエネルギー源として利用されるのですね。
長々と説明しましたが、とりあえず
食物→呼吸→ATP(エネルギー)産生
と理解しておいてください。
活・新鮮=美味いという訳ではない 締めてからが大事
ATPの代謝・分解
ATPには高エネルギーリン酸結合というリン酸結合の部分にエネルギーが貯蓄されています。ATPがADP,AMPへと分解される過程でエネルギーが発生します。
ATP関連化合物 熟成と腐敗
ATPは以下のように分解されます。
ATP → ADP → AMP(アデニル酸) → IMP(イノシン酸) → イノシン(HxR) →ヒポキサンチン(Hx)
生体の魚介ではAMPまでの反応しか進みません。生体ではAMPまで分解されるとATPへと再生産されますが*1
、死後の魚ではADA(アデノシンデアミナーゼ)という酵素によりAMPからイノシン酸(IMP)が生成されます。これを熟成と言います。イノシン酸は死後直後の細胞には無く、イノシン酸生成には熟成の時間が必要となります。さらに進むと腐敗してHxR(イノシン)やHx(ヒポキサンチン)ができてしまいますので、締めてから程よく熟成させることが美味しい刺身を食べるコツです。なるべくATPが多い状態で締め、イノシン酸が最大限に熟成されたところが食べ頃となります。名人と言われる鮨職人さんはこのタイミングを肌で知っているのでしょう。
鮮度指標K値
魚肉中のATP関連化合物の割合は、以下のようにK値が定義され鮮度指標として用いられています。K値はその値が小さいほど鮮度が良好なことを示しています。
K値(%)=(HxR+Hx)/(ATP+ADP+AMP+IMP+HxR+Hx)×100
イカの旨味
イカや貝などは酵素ADAが無く、AMPは死後もイノシン酸へと分解しません。そのためイカはイノシン酸はほとんどありませんが、イカに含まれるグルタミン酸とアデニル酸(AMP)が合わさることで独特の旨味が生まれます。AMP(アデニル酸)はイノシン酸より旨味は弱いですが、グルタミン酸と合わさることで独特の風味を生み出します。
冷凍ズワイガニとATP関連化合物との関係を調べた論文によると
カニのATP関連化合物の定 量値は,タラバガニ,ケガニについてふれた 文献があるが,ズワイガニについては記載がないので,定量に当つて念のためアデノシンの存在も調べたが,生成は認められず分解コースは全てAMP→IMP→HXR→HXをたどるものと思われる 。
篠野 雄一, 平田 史生. ズワイガニの冷凍ATP関連化合物と肉質との関係. 日本水産学会誌 Vol. 39 (1973) No. 9 P 951-954
https://www.jstage.jst.go.jp/article/suisan1932/39/9/39_9_951/_pdf
とありますので、ズワイガニでも死後、魚と同じようにAMPはイノシン酸へと分解されます。
また茹でたり焼いたりすることでATPの分解が進みイノシン酸が増します。
炭火焼ガニへのこだわり
グルタミン酸の含有量自体は焼ガニが一番多くなっています。
炭火焼きで火を通し過ぎず少し生な部分が残っている状態で召し上がっていただくと、旨味成分が濃縮され一番美味しく感じると思われます。このため、かにソムリエの宿・澄風荘では炭火の焼ガニにこだわっています。
しゃぶしゃぶやかにスキ鍋では、昆布の旨味(グルタミン酸)と鰹の旨味(イノシン酸)たっぷりの特製出汁と一緒に食べることでカニの旨味と合わさって美味しくなります。
このように活・新鮮=美味しい訳ではありません。活の食材を調理後上手くコントロールし最大の旨味を引き出すことが、美味しく食べるコツです。
澄風荘では松葉ガニコースにはかに刺しを3本お出ししています。かに刺しは新鮮な活きたカニの風味を味わうもので、あまり多く食べるものではありません。実はかに刺しを食べすぎるとお腹に良くないので、多くはおすすめできず、お一人様3本までとさせていただいています。
冷凍ガニでは解凍時にATPが失われる
前述の冷凍ズワイガニのATP関連物質に関する研究では
生冷凍したカニを解凍して煮熟すると,肉せん維の弾力が生ガニを煮熟した場合と比べかなり落ちる現象が認められ,その原因が不明であつたが,こ れが解凍 とい う操作 のために起こり, 20℃ の流水中で20分 程度の解凍で弾力は急激に低下し同時に肉中ATPも急速に消失することがわかった。
篠野 雄一, 平田 史生. ズワイガニの冷凍ATP関連化合物と肉質との関係. 日本水産学会誌 Vol. 39 (1973) No. 9 P 951-954
https://www.jstage.jst.go.jp/article/suisan1932/39/9/39_9_951/_pdf
とあり、冷凍ガニで旨味が失われる原因は解凍時のATP消失にあることがわかります。
カニスキにおける出汁への旨味成分の移行についての研究
ズワイガニのカニすき鍋におけるアミノ酸の食品から出汁中への移行と味の変化 につ いて研究を行った論文を読みました。鳥取大学教育大学の論文です。さすが山陰の松葉ガニの網元ですね。なんだかイグ・ノーベル的な香りがします(笑)
カニスキ調理の経過に伴う、かにの身のアミノ酸含有量と出汁への移行の変化
1) 脚肉から出汁へのエキス成分の移行は時間とともに変化した.
2) だし汁 中の遊離アミノ酸組成は調理初期 と後期では異なり,後期になると脚肉中の組成に類似した.
3) 遊離アミノ酸などの含有量の多い調理初期の脚肉よりも含有量の少ない調理中期のほ うがおいしいと感じる者が多かった宮川 正美, 大塚 譲. ズワイガニのカニスキにおける遊離アミノ酸の変化について. 日本家政学会誌Vol. 38 (1987) No. 1 P 5-12
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhej1987/38/1/38_1_5/_pdf
なぜアミノ酸含有量の多い調理初期より中期の方が「美味しい」と感じるという結果は興味深いですね。考えられるのは個々のアミノ酸(旨味成分)の多寡だけでなく、アミノ酸の組み合わせやバランスが美味しさに関係あるのだろうと思います。またこの論文では
人間にとってのおいしさというものは必ずしもアミノ酸やエキス成分の量によってのみ決定されるのではなく,他の要因も考えなくてはならないことを示唆している.
という哲学的な?結論を出しています(笑)。
あらゆる意味で美味しい時間をおもてなし
熟成肉がブームですが、ズワイガニなどの魚介も適度な熟成が美味しさを引き出します。活松葉ガニも捌き方や調理法で美味しさは変わります。もちろん化学的な旨味成分の多寡だけでなく、雰囲気を楽しみゆっくり気持ちよくお食事の時間をお過ごしいただくことも美味しさの秘訣ですので、あらゆる点で最高のおもてなしができるよう、努力しなければならないと思います。
お客様に最高の状態で召し上がっていただけるよう、かにソムリエはこれからも精進して参ります。
学問は人に優しい
なぜ私がこのように長々と科学系の記事を書いているのかと言うと、世間では科学や学問は「退屈」「冷たい」「人間的でない」と誤解されている節があるのではないかと悲しく思っているからです。
WELQのような科学的根拠のない医療記事がネット検索結果にあふれ、多くの人が信じてしまったり、水素水のような効能が不確かな健康食品商売に騙されてしまうのは、どこかで科学に対する不信感があるからではないでしょうか。
水素水については国民生活センターが注意を喚起しています。
容器入り及び生成器で作る、飲む「水素水」−「水素水」には公的な定義等はなく、溶存水素濃度は様々です−(発表情報)_国民生活センター
確かに科学が悪用されることもありますが、科学や学問にはそれを批判する自浄作用や自由があります。
科学は元々身の回りの世界に対する素朴な疑問を突き詰めることから始まっています。
普段の私達の生活は科学につながっているのです。非人間的どころか人間的であることがイコール科学的であります。
科学や学問には
・誰にでも公平に学ぶ道が開かれている
・客観性、再現性がなくてはならない
・反証し、仮説を検証し得る
という特徴があります。誰でも簡単に理解できるとは言いませんが、基礎となる知識を積み重ねて行けば理解する道筋は提示されています。思考停止して疑似科学やトンデモ医療に騙される前に、難しいことから逃げずにちょっとずつ考えを重ねる習慣を身につけることで、普段の生活にも科学的な思考を取り入れることが出来ます。
科学や学問は人に優しい、と私は思うのです。
(余談)
「かにソムリエの勉強日記」シリーズは、高校生以上の方が見出しと図を見れば流れが理解できるように、なるべくわかりやすい記述とイメージし易い図の作成を心掛けています。(図はWikimedia Commonsからの引用以外は自作で描いています)公表された論文・総説やEssential細胞生物学やCELL細胞の分子生物学など信頼できるテキストを元に正確な記述を心掛けていますが、内容に不備がある場合はご指摘いただけるとありがたく存じます。
関連記事:
*1:AMP + ATP → 2 ADP (アデニル酸キナーゼによる逆反応)
2 ADP + 2 Pi → 2 ATP