2014-02-01から1ヶ月間の記事一覧
数日前テレビにも取り上げられていたが、日本海新聞の報道によれば福井県と石川県の漁連が若松葉かにの漁期について論争をしているそうです。 若松葉とは 若松葉とは、ズワイガニ(松葉ガニ)が脱皮して期間の短いズワイガニの子供の事です。 若松葉かには、…
大学時代のご友人が浜坂までお尋ねになられ、澄風荘に御宿泊されました。ご夕食の前に色浴衣に変身、着付けはかにソムリエがお手伝い。。 そのあとは、やはり浜坂では松葉かにのフルコースとなります。松葉かにの炭火焼、かにしゃぶ、カニ刺し、甲羅味噌焼き…
毎年、澄風荘にかにツアーでおいでくださいますお客様です。この度は古希のお祝いで多くの家族様がお集まりになられました。 古希は古来稀、唐の詩人杜甫の詩「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもあ…
6.加藤文太郎と松濤明 加藤文太郎と北鎌尾根といえば ,同じ北鎌尾根で命燃え尽きた松濤明が思い起こされます。 13年後の昭和24年奇しくも1月6日、槍ヶ岳北鎌尾根で加藤文太郎と同じようにパートナーを伴って、一人の単独行者が、命を落としています…
「加藤文太郎のふるさとの碑」の高台から浜坂の町と青い海を眺めると、しんとした静寂さがこころに広がり、文太郎の孤独と彼を支えた一人の女性の孤独が思い寄せて来るように感じます。 人は、決して一人では孤独を知ることは出来ません。沢山の人との出会い…
平成16年、加藤文太郎生誕百年の年、山岳雑誌「山と渓谷」の特集で「単独行と加藤文太郎」いう企画があり、作家の谷甲州さんが来町されました。 谷先生は、加藤文太郎も登ったことがある扇ノ山に登り、案内には地元のY君やT君も同行しました。 夜には、谷…
浜坂の町中を味原川という小さな川が流れています。川の片側には、高い石垣と古い塀が連なる家並みがあって味原小径と古い家並み昔の面影を感じさせてくれます。その反対側に、日本アルプスをイメージした屋根の建物が町立加藤文太郎記念図館です。 平成2年…
平成元年、町の教育委員会のSさんから「流れる星は生きている」というテーマで、藤原てい氏の講演を企画しているが、藤原さんに講師のお願いがしてもらえないだろうかと、依頼を受けました。私は、山本茂信先生に倣って、「折角、藤原さんをお招きするのに、…
4.加藤文さんは今も生きている 加藤文太郎とごく親しい山仲間であった多田繁次さんや永楽孝一さんは、「加藤文さんは今も生きている」と、言われました。 実は、私もそう思っている一人です。 加藤文太郎から影響を受けた人は、植村直己さんを始め久谷の尾…
孤高の人は、新田次郎氏の小説で、山と渓谷から昭和38年より連載され話題になり、山を知らない多くの人たちにも加藤文太郎のことを広く知って戴くきっかけとなりました。 新田氏は、気象庁の職員であった当時、富士山測候所に交代勤務で登る途中、五合五勺…
文太郎は、翌10年1月16日長田神社で、同じ浜坂生まれの下雅意花子さんと挙式し、神戸で新婚生活を始めます。 その後、郷里の浜坂で結婚披露宴のため帰郷するが、途中、扇ノ山などに登りながら帰ったため、披露宴に大変遅刻して、花嫁の花子さんをやきも…
昭和4年の八ヶ岳の山行では、無人の山小屋にただ一人立てこもり、破れた障子穴から吹き込む吹雪に身ぶるいしながら元旦を迎えた時の手記をRCCの会報に次のように報告している。その抜萃の一文です。 「今日は元旦だ、町の人々は僕がもっとも好きな餅を腹一…
澄風荘が始まった頃からのお客様ですが、この度はオーストラリアにご在住の娘様ご一家でお越しいただきました。 1日目は但馬牧公園にあるスキー場で雪遊びを楽しまれましたが、今のオーストラリアは夏休みで気温は40度以上。初めての雪にお窓孫たちは大興…
加藤文太郎は生まれながらの単独行者とよく言われるが、神戸の山仲間とは、但馬の氷ノ山や扇ノ山、妙見山、蘇武岳などの山には度々一緒に行っておりました。 そしてこれらの山々を兵庫アルプスと呼び、氷ノ山を兵庫槍ケ岳」などと名付けており、ふるさと但馬…
その当時の登山は、現在のような山ガールブームや中高年者が気楽に登れる状況ではありませんでした。 一部のブルジョワ階級や大学の山岳部が主流で、一般の人々は低い山々の登山を楽しむ程度でした。 ましてや、日本アルプスの而も冬山をたった一人で登攀す…
昨年の11月6日から始まった松葉かにの解禁もはや三か月が過ぎようとしております。今週も多くの皆様にお越し頂きました。
週末の土曜日、四人連れのお客様。ご夕食はカニ三昧、蟹炭火で焼きかに、カニ甲羅みそ焼き、カニ刺し、若松葉のしゃぶしゃぶ、若松葉の茹で、〆はカニ雑炊。
山の師 藤木九三さん 藤木氏は日本山岳界の先駆者で、当時登山界の第一人者でした。 藤木氏は、朝日新聞社に勤務していて、また詩人であり、随筆家でもあって昭和の初期の国語の教科書には夏目漱石や島崎藤村などと一緒に氏の随筆も拝見されています。 また…
いよいよ遭難が確実視されると、新聞各紙は見出しに様々な表現で加藤文太郎の遭難を報じました 「国宝的山の猛者槍に消える」「不死身の加藤文太郎槍で遭難か」等々です。 捜索は1月7日から行われたが、二人の手がかりは何もないまま、1月17日で打ち切…