6.加藤文太郎と松濤明
加藤文太郎と北鎌尾根といえば ,同じ北鎌尾根で命燃え尽きた松濤明が思い起こされます。
13年後の昭和24年奇しくも1月6日、槍ヶ岳北鎌尾根で加藤文太郎と同じようにパートナーを伴って、一人の単独行者が、命を落としています。
彼は死ぬ間際まで日記を書いていました。其の日記は、結果的に遺書となりましたが、其の内容の一文は
「全身強ばって力なし、何とか湯俣までと思うも有元を捨てるに忍びず、死を決す
お母さんあなたの優しさにただ感謝、一足先にお父さんのところへ行きます。」
松濤明は、友人有元克己のそばで亡くなっておりました。
この史実は、「風説のビバーグ」としてよく知られております。
加藤文太郎も何とか吉田富久を伴って二人で生還しょうと猛吹雪の中を必死にもがき、全力を尽くすが、やがて吉田富久は死んでいきます。
加藤文太郎は、吉田を丁寧に弔って目印に自分の大事なピッケルを立てて、再び下山を開始します。
この時の情感を作家の田中澄江さんはこう述べております。
「友と一緒にベテランの登山家が死ぬ。その遺骸が発見される。そこには遺族の悲しみにもまして、本人の無念の思いが滴り落ち、滲み込んであろうと、いつも心を粛然とさせるものがあった。」
「加藤さんのお家には、歳若い奥様といとけないお嬢さんが待っていた。どんなにか、死の魔手と闘ったであろうと想像していたましい気がした。 」
加藤文太郎と吉田富久の遺体が発見されたのは、春になって雪が溶け始めた4月26日のことでした。
長野県の松本高校の山岳部2名が、まだ雪深い千丈に向かってから小一時間経ったところで、雪の中に立ててあったピッケルを見つけ、「誰がこんな立派なピッケルを捨てたのだろう」と話し合った数分後、雪に埋もれた遺体が発見されたのです。
二人は、あわてて大町警察署に駆け込んだのでした。
その吉田富久の遺体から500mほど下山したところで加藤文太郎の遺体が発見されました。あと僅かで生還できるところまでたどり着いていましたが、残念ながら命燃えつきたのです。
花子さんは、夢に出てきた1月6日を加藤文太郎の命日にして、すでに告別式は2月9日神戸市で執り行われていましたが、本葬儀は5月2日ふるさと浜坂でしめやかに行われました。
戒名は 雄山俊哲居士
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