加藤文太郎は生まれながらの単独行者とよく言われるが、神戸の山仲間とは、但馬の氷ノ山や扇ノ山、妙見山、蘇武岳などの山には度々一緒に行っておりました。
そしてこれらの山々を兵庫アルプスと呼び、氷ノ山を兵庫槍ケ岳」などと名付けており、ふるさと但馬をとても大切に考えていた人でした。
しかし、超人的な速さで登るものだから誰一人として文太郎についてこられません。
ある山行では、会社が終わって神戸から一行は汽車に乗り、夜の11時頃八鹿駅に着くと、他の皆は駅前の旅館に泊まって朝一番のバスで氷ノ山の麓の福定に向かいます。
しかし、文太郎はそのまま夜を徹して歩き続け、途中野宿で仮眠をとって、再び山に向かいます。
他の人よりも多くの山にのぼることが出来るし、バス代や旅館代を浮かせヒマラヤ貯金に回すことになるからです。
決してケチではありませんが、合理主義者で目的のためには自分を律することが出来ました。
しかし、ご両親が亡くなった後、この大事なヒマラヤ貯金から供養のため、高価な石の灯篭を建立しております。
日本アルプスのような高い山の山行計画には、誰もが尻込みをして、文太郎について来られませんでした。
その上、他人に迷惑を掛けたくないからと、自然と単独行となっていったのです。
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