いくとせの
前の落葉の上に
また
落葉かさなり
落葉かさなる 純孝
前田純孝は、明治13年今の兵庫県新温泉町諸寄に生まれた。御影師範学校時代から「新詩社」に属し、機関誌「明星」に投稿した。
その頃与謝野鉄幹から東の啄木か西の翠溪か、と嘱望されていた。
しかし、明治42年結核を患い、故郷諸寄で闘病生活を強いられた。妻と愛娘を明石に残しての療養であった。郷里での生活は貧困と生と死の狭間で彼の心の慟哭を短歌や詩に書き綴った。
純孝の生活資金と薬代は、東京にいる友人葛原滋が、奔走して純孝の作品を金に換え生活を支えていた。
冒頭の短歌は闘病生活を投影した作品です。
葛原滋の努力もむなしく、明治44年前田純孝は31歳で夭逝した。与謝野鉄幹・晶子は純孝の死を悼み、彼の才能を惜しんだ。