澄風荘から歩いて4分程のところに、明治時代の鉄道院総裁後藤新平氏のお手植えの松がある。もっとも松は大雪の被害で倒壊され今は二代目の松である。
現在は、ユートピア浜坂のある場所で、当宿のお客様にも散歩がてら入浴に行って頂いておりますが、
元は浜坂役場跡地、その当時は浜坂尋常高等小学校であったところである。
後藤新平鉄道院総裁が、何故片田舎である新温泉町浜坂に来られたかということになるが、その山陰本線開通の一番の難所が餘部と久谷の間にある桃観トンネルと余部鉄橋であった。
余部鉄橋建設プロジェクト
昨年は、余部鉄橋も新しい橋梁に架け替えられ、山陰本線は今年で開通100周年を迎えることになるが、山陰本線は日清・日露戦争後の日本の大陸政策として大変重要な路線であった。
明治40年、測量の開始から45年の開通まで、余部鉄橋はのべ25万人と33万円、桃観トンネルは工事期間4年と61万円の巨費を投入した一大プロジェクトであった。
工事の進捗は大変な困難を極め、多くの犠牲者をだした。その中で、鉄道院後藤新平総裁が工事の進捗状況視察と激励のため、現地を訪れた。この時総裁をご案内したのが米田茶店の元祖米田弥衛門翁であったが、もてなしは大乗寺などで行われた。
完成当時、余部鉄橋は東洋一、桃観トンネルも1991mで本線最長の長さを誇った。桃観峠は、大変急峻な山道でこの峠を越える人々は股の痛みが甚だしいため、股(もも)がうずくことから「ももうずき峠」と呼ばれ、また、当時の鉄道院は、良い名前をつけようと思わず股を視ることから「桃を見る」とのことで桃観トンネルと命名されたと聞く。
後藤新平総裁のこと米田弥衛門翁のことは後日で。
写真は昨年架け替え工事中の餘部新橋梁