竹田城は、山名持豊(宗全)の時代に築城したが、城主は重臣の太田垣氏に委ねていた。
応仁の乱の西方の総大将に任じられた宗全は、東方の総大将であった細川勝元との京の町を二分した戦いは10年以上に及んだ。
そもそも応仁の乱は、足利幕府の跡目争いが発端で、将軍の義政は、銀閣寺などの東山文化に象徴されるように、政治にあまり興味を示さなかった。義政は正室日野富子との間に後継男子がなく、早い時期に隠居して跡目を仏門に入っていた弟の義視に譲ろうと考えるようになった。
義視は、兄の義政がまだ29歳と若く将来男子が生まれる可能性もあるので、将軍後継を固辞していたが、もし生まれた男子は仏門に入れるとの義政の説得で還俗して、細川勝元を後見人とした。
ところが、義政と富子に男子が誕生すると、あくまで弟義視を将軍にしょうとする義政と自分の産んだ子を将軍にしたい富子のあいだに齟齬が生じた。
富子は、但馬、山陰、因幡など西国で勢力を持っていた
山名持豊(宗全)を頼ることになった。
元々山名氏と細川氏の関係は良好であったが、地方の守護職や管領などの跡目問題も絡んで応仁の乱に発展されたと言われていが、はっきりとした原因も見当たらないし、終戦後の勝者も見当たらないと言われる。
応仁の乱から山名氏は衰退し、戦国末期にはのニ系統あったが、但馬を城主とする山名氏は秀吉の但馬征伐で滅んだ。
一方、因幡の系統の山名豊数は、かろうじて因幡の国を領有していたが、武田高信に攻められ、布勢天神山城から退却した。
弟のは、尼子氏の力を借りて因幡の支配権を奪還して、城主に収まった。
ところが、羽柴秀吉の山陰侵攻に合うと重臣の反対を押し切って投降する。
関ヶ原では、徳川家康に味方して戦功を上げ、「但馬国の一部を与える」、との言葉を家康から受ける。
豊国は、教養人で、かつ名門の出身であったから家康から厚遇され、家門は幕末まで続いた。
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