後漢の末期、曹操、孫権、劉備がそれぞれ鼎立し、三国時代に突入しょうとしていた。やがて、関羽が敗れて、続いて曹操が崩御された。
曹操のあとを継いだのは太子の曹丕で魏王となった。実弟でライバルであった曹植は陳王に封じられた。
実際、曹操が遠征中には兄である曹丕でなく、三男の曹植をしばしば戦場に同行している上、皇后である二人の実母の卞氏は、曹植を可愛がっており、太子には曹植をと願っていました。
そのようなこともあって、曹丕、曹植二人の関係は実の兄弟同士でありながら、微妙な感情の縺れがあったようです。
曹操の遺言のこともあって、曹丕は喪に服することもなく、魏国の政務に務めた。暫くして後漢の最後の皇帝、献帝の使者を曹丕は迎えた。
天子の璽と綬を使者は持って、皇帝の位を曹丕に奉ずるとの、皇帝の詔でありました。後の時代の言葉では禅譲でありますが、禅譲とは古代の聖人である帝堯が、自分の子供でなく、豊な徳の備わった平民の舜に位を譲ったことに始まります。
その後、聖王舜も実子を避けて、位を禹に禅譲したが、禹も有徳の益に位を譲ろうとした。
しかし、人々の思いが禹の実子である啓に集まり、禅譲は潰えて、王位の継承は血胤を重んじるようになった。
中国初の王朝夏の始まりです。
献帝が聖人であって、魏王曹丕が豊かな徳を持った聖王であったと、歴史は正確に認めてはいないと思うが、曹丕は三度辞退をして、四度目に群臣の献言を受け入れ、壇に登って恭しく禅譲を受けた。
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