はまさか日記~澄風荘しょうふうそう~

兵庫県浜坂温泉・カニソムリエの宿・澄風荘の主人・スタッフが、但馬の文化や歴史、山陰海岸ジオパークのPR、浜坂の四季折々の魅力をお伝えしていきます。

中国の歴史に学ぶ4 宋襄の仁と晋文公・重耳 戦いの礼節

春秋時代前期、斉の管仲の話からの続きです。

(注:この記事は長いです。ご興味のない方は飛ばしても構いません^^;)

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宋襄の仁 宋・ 襄公

管仲の死後、斉の国に代わって盟主となろうとしたのが宋の国の襄公(じょうこう)であった。宋は、殷の紂王の腹違いの兄の微子が封じられた国で、それなりの矜持があったのかも知れない。


襄公は、桓公亡き後盟主とならんと欲して、盂(河南省睢)にて会盟を開いたが、宋に主導権を執られたくなかった楚の重臣に監禁されてしまった。

 

その後、襄公は一旦帰国して楚との決戦に及ぶが、楚軍が川を渡っているとき、家臣が、「今敵を攻撃するときです」と進言するが、

君子気取りで「楚軍が川を渡り切ってから攻めるべし」と言って折角の勝機を失い、宋軍は惨敗を喫してしまう。

これを後の世の人は、宋襄の仁と呼び笑う。  

三舎を退く 晋文公・重耳(ちょうじ)

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Duke_Wen_of_Jin_Recovering_His_State_(晉文公復國圖)_by_Li_Tang_(李唐),_1140

 

晋の国は大国であったが、献公は寵姫驪姫(りき)の言いなりになり、驪姫は自らの息子・奚斉を跡継ぎにしようと陰謀を巡らす。献公の公子重耳も辺境に回され、首都から遠ざけられた。

更に驪姫は公子申生を罠に嵌めて父毒殺未遂の汚名を着せ、申生を自殺させた。 
身の危険を察して、公子の重耳や夷吾は晋を出国して、中国全土をめぐる放浪の旅に出ることになる。
 

重耳の旅は19年にもおよび、命を狙われる旅であったが、名声の高い彼には狐偃・趙衰ら多くの有能な家臣団がついていた。

一行はまず衛の国を目指したが、衛の文公はこのみすぼらしい亡命者を歓迎せず、五鹿というところで食料が尽き、そこで百姓に食べ物を乞うことになった。

その百姓は貧しい身なりの重耳一行に食べ物を与えず、器に土を盛って差し出した。
重耳は激怒したが、趙衰に「土をくれるということは、この国の土地を得るということです。拝して受けたほうが良いです。」と、言われ重耳はその通りにした。

後に帰国して晋の君主となった文公(重耳)は、この衛の国を切り取って晋の版図に加えた。

 

次に一行が向かったのが、斉の国であった。斉はまだ桓公が健在で、さすがに桓公は、みすぼらしい亡命者の公子をこころから歓待し、自分の娘(斉姜)まで娶らせた。

重耳はこの居心地の良い斉に5年間留まり、帰国の志を忘れかけていた。これに対して狐偃・趙衰らは重耳を連れて斉を出ることを秘かに計画する。

この計画を斉姜の侍女が盗み聞きして斉姜に告げるが、斉姜は漏洩を恐れて侍女を殺し、重耳に早く斉を出るように促した。

しかし重耳は聞く耳を持たなかった。そこで斉姜は狐偃たちと図り、重耳が酔ってしまった所を車に乗せ、無理やり斉から連れ出すことに成功した。

 

酔いから目覚めた重耳は、怒り狂ったが、一行は既に斉の国外にいた。
次に向かったのが、曹であった。曹の共公は重耳に無礼があったので、すぐに旅立ち宋に向かった。  

 

宋は「宋襄の仁」のあの君主であったので、桓公と同じく重耳一行を厚く持成した。
ところが、宋は「宋襄の仁」で楚に大敗をしたところで、あまり頼るわけにもいかず、楚に向って出国することにした。
途中、一行が立ち寄ったのが、鄭であったが、鄭の文公に冷遇を受け、すぐに旅立った。
楚の成王(このころはまだ中原の諸侯は王とは名乗らず、楚だけが自らを王と名乗る。)は、この亡命者の重耳一行を君主と同格の待遇で持成した。

成王は悪戯心から「あなたが晋に帰国され、君主になられた暁には、私に何をお返ししてくれますか?」と、尋ねる。
重耳は「もし王と戦うことになったら、軍を三舎(軍が3日で行軍する距離)退かせましょう」と、答える。
これを聞いた成王の家臣の子玉は、亡命公子のくせに、王に向かって生意気であると憤り、重耳を殺そうとしたが、成王は「天が興そうとするものをどうして止められようか」と子玉を止めた。

文公 (晋) - Wikipedia

紀元前637年、重耳は晋の重臣達からも内々に請われ、秦国を後ろたてにして晋に入る。


晋軍は迎撃に出るが、評判の悪い恵公についていこうとする者は少なく、戦ったのは側近の軍だけで、他の殆どの晋軍は重耳に付いて秦軍と共にこの側近の軍を滅ぼし19年ぶりに重耳は入国を果たした。

程なく重耳は晋公に就く、(以下、文公とする)実に62歳の新君主である。そこで文公は天下経営に乗り出すことになる。


後に楚の成王軍と戦うことになった晋の文公(重耳)は、約束通り三舎退かせたのち、城撲の戦いで成軍を打ち破ることになる。
この戦いの勝利で、斉の桓公に続いて文公は盟主に昇ることとなる。

介子推(かいしすい)

重耳(文公)の帰国に際して次のような逸話がある。

重耳が、国の混乱を鎮めて晋に入国するとき、ある重臣が、重耳に暇を申し出て「私はこの19年間、殿に数々の無礼を働き、その上何のお役にも立ちませんでした。したがってここでお暇を頂きたいと存じます。」と、言った。

驚いた重耳は「何を言うか、其方がいなければ今日の吾はない」と、思いとどませた。
一面、見事な謙遜ぶりであり、逆に、実に上手な自分の売込みだ。この様子を偶然見たものがいた。

介子推であった。

彼は身分が低いので、直接重耳に接する立場にないので、あまり知られていなかったが、蔭であらゆる働きをして、重耳の帰国を助けた武勇の士であった。
 「汚いな、こんな家臣と、今後一緒に殿にお仕えすることはできない」と、介子推は黙って重耳の前から姿を消してしまった。

重耳が晋の文公となり、論功報償が行われたが、子推に俸禄は与えられず、子推もまた何も要求しようとしなかった。重耳が晋公の位につくのは天命であり、天の功績を盗むことはできない、という考えからであった。母を連れて緜上の山中に隠栖し、死ぬまで世に現れなかった。
子推の従者が思いあまって「龍欲上天 五蛇為輔 龍已升雲 四蛇各入其宇 一蛇獨怨 終不見處所」(龍は天を望み5匹の蛇がそれを助けた。今龍は天に上ることができ、4匹の蛇もそれぞれいるべき所にいる。だが、1匹の蛇だけひとり恨みいるべき所もない)という書面を宮門に掲げた。それを見て後悔した文公が緜上に柵をめぐらして介子推の封邑とし「介山」と呼ぶとともに「我が過ちを銘記し、善人を表彰する」こととした。

介子推 - Wikipedia

 まとめ

礼節を重んじ、杓子定規に守ったは宋の襄公は「宋襄の仁」で大敗を喫し、一方

また約束通り三舎退かせた晋の文公(重耳)は、楚の成王軍を打ち破る。

同じ礼節を守っている状況でも結果を分けたのは、宋襄公の場合は戦力において負けている余裕のない立場であり、普の文公は戦力に圧倒的な大軍を有しており余裕があったという違いであろう。

礼を重んじるにしても、バカ正直に時制を考えず形だけの礼を守った襄公と比べて、

文公(重耳)は苦労を重ね老獪な冷静さがあったといえるかもしれない。