細々と書いてる中国の歴史に学ぶ3です。
春秋前期は盟主覇権時代
幽王崩御後、諸侯は廃太子となっていた宜臼を平王として即位させ、周祀を祀らせた。しかしこの兵乱により都は破壊されていたため、(周)平王は東の洛邑へと遷都し、東周が始まることとなった。
春秋時代は(紀元前770年から403年までと言われ、次の戦国時代との線引きは薄い。)
春秋時代になると、周王朝の権威は落ち、各地方の国の諸侯が力を持つようになり、その中でも一番力のあるものが、周王に代って盟主となり各諸侯を集めて会盟を開くことになる。
盟主が牛耳る時代 斉の桓公・晋の文公ら
盟主となった一番力のある君主は会盟の諸侯のまえで、一頭の牛を引き回し、その牛の耳を包丁でそいで血を皿に受け、集まった諸侯がそれを飲んで約束を明らかにし、会盟を成就させる。「何々を牛耳る」の言葉はここからきています。
この盟主となる諸侯を春秋五覇と呼び最初の盟主が、太公望呂尚が建てた斉の桓公がなる。
管鮑の交わり 斉・管仲と鮑叔
仲の良いもの同士の事を管鮑の交わりと言い、春秋時代、斉の国の管仲と鮑叔の関係を指して、後世の人は菅鮑の交わりと呼ぶ。
二人は仲の良い幼馴染であったが、斉の国では仕える公子が違い、菅中は糾、鮑叔は小白それぞれに仕えた。やがて二人は跡目争いに巻き込まれる。
管仲は先手を打つて、鮑叔の仕える公子小白を殺そうとするが、それに失敗して捕らえられる。
公子糾との跡目争いに勝利した公子小白は第16代斉の君主に就く。
鮑叔は、管仲の助命嘆願をするだけでなく、「斉の国一国を治めるだけなら、君主を補佐するのはこの私で十分です。しかし中国全土を治め、中原に覇を唱えるなら管仲を使うべきです。」と、桓公に訴えた。
桓公も鮑叔の言を聞き入れて、斉の国の宰相にとりたてて国政を管仲に委ねる。
管仲は、全力で国を盛り立て、富国強兵策で国を富ませて、桓公を春秋一の盟主に押し上げる。中原で最初に盟主となり、諸侯と会盟を行ったのがこの斉の桓公であった。
後世に管仲の著書とされている『菅子』の中の言葉として「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」の言葉がある。まず民生の安定があってこそ良い政治が行えるという考え方だが、管仲が礼節を蔑ろにしたわけではない。
管仲が亡くなるまえ、桓公は次の宰相は誰が良いかと尋ねる。
「次は鮑叔で良いか」と、桓公は管仲にさらに念を押すが、管仲は他の人の名前を挙げて、「鮑叔は駄目です。」といい、またある者二人の名前を挙げて「このものだけは必ずなさぬように」と、言い残して死んだ。
鮑叔は、管仲が自分を推薦しなかったことを恨まなかったし、自分の能力を誰よりも知っているのは管仲であり、管仲の気持ちを一番よく分かっているのは鮑叔自身であることを良く解っていたからである。
ところが、管仲の言い残した言葉を守らず、一番用いてはならない人物を桓公は宰相に就かせ、それから斉の国はつるべ落としのように衰退して行くこととなる。桓公の死後、斉の国は跡目争いを起こして、桓公の葬儀は60日間も執り行われず、その遺骸には蛆虫がわいていたそうである。
まとめ
管仲と鮑叔の友情は、互いの友情という小さい世界の私利私欲にとらわれず、国のためになることを第一に考えることでした。それを互いが理解し尊重している。
友達だからと適任でない職に推薦するような小さい友情ではなかったのです。
現代の政治家にもぜひ学んでほしいところであります。