終わりの見えない春秋時代半ばに来ました。
実はこの中国の歴史シリーズ、wordで50ページ近くある、父(澄風荘・主人)が書き溜めた文書を元に書いています。 いつか終わるんでしょうか。
三年泣かず飛ばず 楚・莊王
楚の荘王は(在位紀元前614年から紀元前591年 )楚の第6代の王で、楚の歴代君主の中でも最高の名君とされ、春秋五覇の一人に数えられる。
莊王は父王が亡くなり、若くして王位についたが、毎日酒を飲み、政務を顧みず三年間遊び呆けた。(諫言する者は全て誅殺すると宣言した。)
家臣達は呆れ返ったものの諫言も出来ずに見守っていたが、3年目に伍挙が(伍子ショゥの祖父)が「謎かけをしたいと思います。ある鳥が3年の間、全く飛ばず、全く鳴きませんでした。この鳥の名は何と言うのでしょうか?」と言った。
荘王は「その鳥は一旦飛び立てば天まで届き、一旦鳴けば、人を驚かせるだろう。お前の言いたいことは解った。」と、言い伍挙を下がらせた。
その後も荘王は遊びに耽ったが、太夫蘇従が死を恐れずに諌めたので、これを期に王はそれまでの行いを改めた。
三年間愚かな振りをする事で家臣の人物を見定めていたのである。
伍挙と蘇従に国政を任せ、目を付けておいた者を新たに数百人登用し、悪臣を数百人誅殺した。
この故事から、じっと機会を待つ状態の事を「鳴かず飛ばず」と言うようになった(しかし現在では長い間ぱっとしない事を鳴かず飛ばずと、使うことが多い)
鼎の軽重を問う 楚・莊王 周・王孫満
国政を整えた荘王は、庸を攻略したのを皮切りに周辺諸国を攻めて、領土を広げて、覇者としての才覚を顕わしはじめた。
紀元前606年には兵を周の都・洛邑の郊外にまで進めそこに駐屯した。
荘王は、周の王臣王孫満に対して、周室にある九鼎の大きさと重さを聞いた。
九鼎は殷の時代から受け継がれた伝国の宝器で、当時は王権の象徴とみなされていたものである。
その重さを問うということは、すなわちそれを持ち帰ることを示唆したもので、周の王位を奪うこともありえることを言外にほのめかした。
一種の恫喝であるが、周の使者・王孫満は、これにひるむ事なく言った。
「問題は鼎の軽重ではなく、徳の有無であります。周の国力は衰えたとはいえ、鼎がまだ周室のもとにあるということは、その徳が失われていないことの証に他なりません」、これには荘王も返す言葉もなく、その場は兵を引かざるを得なかった。
この故事から、
「面と向かって位をうかがうこと」、ひいては「面前の相手の価値を公然と疑うこと」を、「鼎の軽重を問う」(かなえの けいちょうを とう)と、言う。
知る無きに如かず 楚・莊王
楚の莊王には、またこのような逸話がある。ある時、荘王は宴席を開いた。
酒がすすんで宴も盛り上がった頃、風で蜀の灯が消えて宴席は真暗となった。
その時、王の后の衣を引っ張った臣がいた。
后は怒り、そのものの冠のひもを切り、手に持って荘王に訴えた。
「暗闇を利用して私に悪戯をしようとしたしたものがおります。」
「灯りを点してください、そのもの冠のひもを持っております。」
「いや、皆に酒を飲ませ酔わせたのはこのわしだ。お前に節操のあることはよく解った。そこで、引き続きわしと酒を飲むものは皆冠の紐を切れ」と、命じた。
宴席は無事に終わり、その臣の行為は不問に付された。
その二年後、楚は大国晋と泌で戦ったが、目覚ましい働きをする男がおり、多くの首級を挙げ、そのこともあって楚は大国・晋に勝った。
まとめ
鳴かず飛ばずとは現在でぱっとしない事を言うが本来の故事では敢えて才気を隠し力を発揮する機会を待つことでした。
故事成語では本来の意味とは変わっている場合も多いです。
楚の莊王は自分の力の出しどころを見極め、臣下の能力を見抜く優秀な君主でした。
政治においては、自分のことも他人のことも真価を見抜く目というのが重要なのかもしれません。
知る無きに如かずのエピソードには納得出来ないもやもやを感じますが…
(酔っていたからってセクハラを不問にするのか。やはり歴史は男性目線で描かれているようです。)