魏国への遠征を繰り返していた諸葛亮孔明は、前回の第4次北伐においては優勢な状況を、部下である李厳が大雨による食料の輸送に失敗して食料が尽きたため、撤退せざるをえなくなった。
食料の備蓄のため三年待った孔明は、第五次北伐を開始する。迎え撃つ魏軍は、司馬懿仲達率いる約30万。
孔明は陽動作戦を駆使して魏軍を攻撃した。さらに孔明は司馬懿仲達を挑発して、魏軍の出陣を誘った。
魏軍の諸将には、撃ってでるべきとの機運が高まるが、仲達は皇帝の曹叡から出陣を禁止されていることを理由に、軍を動かさなかった。
そのうち孔明は、激務も重なり体調を崩して摂食量も落ち自らの死期を悟り、枕頭に側近を呼び、自らの死を伏せて軍を速やかに撤退することを指示する。
偵察により孔明の死期の近いことを、知っていた仲達は、
蜀軍が撤退を開始すると魏軍を追撃させようとした。が、蜀軍が反撃の姿勢を示すと仲達は慌てて軍を退いた。
人々はこれを揶揄して、「死せる孔明生ける仲達を走らす」
と言った
三国志演義では、孔明が自分の等身大の人形を作らせ仲達を慌てさせ、後半の最大のクライマックスかも知れない。
人伝にこの揶揄の話を聞いた仲達は、「私は生者を相手にする事は得意だが、死者を相手にするのは不得手だ」」(『論語』の「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と答えたという。
司馬懿仲達は、撤退後の蜀軍の陣営を見て、「天下の奇才」と感想を漏らしたという。
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