はまさか日記~澄風荘しょうふうそう~

兵庫県浜坂温泉・カニソムリエの宿・澄風荘の主人・スタッフが、但馬の文化や歴史、山陰海岸ジオパークのPR、浜坂の四季折々の魅力をお伝えしていきます。

カニソムリエともてなし

6月26日(木)新温泉町浜坂マリンポーチで「カニソムリエの会」の設立総会が行われた。

カニソムリエは、浜坂観光協会が3カ年かけ養成したカニのプロフェショナルであるが、基本理念は持て成しの心であり、お客様に提供する食材に拘り、安心・安全を第一とするものです。

総会では、会の規約、本年度のスローガンと事業計画が審議され、提案通り承認された。次に会の代表と4名の運営委員が選出されました。

代表には「こうや旅館」の堀江順子さんが就き、「浅学非才でありますが、皆様のご協力を戴き、全員の和をもって会の運営にあたりたいので、宜しくお願いします。」と挨拶を述べた。

総会終了後、出席者全員で記念写真を撮った。

持て成しには、お出しする食材、施設の設え、接客の振る舞いなどあるが、何より大切なものは、お客様と持てなす側との在りようではないだろうか。難しいことはさておき、二つのエピソードを紹介します。

(一)室町時代、隠居した5代執権北条時頼は、見窄らしい僧侶の姿で諸国行脚に出たが、ある時大雪に見廻れ、日も沈み道に迷ってしまいました。困り果てた末、漸く一軒の民家を見つけ一泊の宿を頼みました。ところが、その家の主は「荒ら屋の上、貧乏で食べるものもなく、何の持て成しも出来ないので」と宿泊を断ってしまいました。ところが、主の妻に「この大雪の中、せめてお泊まり戴くだけでも」と言われ、旅の僧の後を追いかけ、家に連れ帰りました。主は囲炉裏で暖をとって、僧侶を一生懸命持てなしました。やがて燃やす薪もなくなり、主はもっとも大切にしている盆栽まで鉈でたたき割り、薪として燃やしてしまいました。旅の僧をどこの誰とも知らぬまま主は「自分は室町幕府の御家人であったが、理由あってこのような暮らしをしているが、いざ鎌倉となれば一番に鎌倉にはせ参じましょう」と言いました。

ほどなく、幕府は、諸侯を鎌倉に集まるよう勅令を出しました。その宿の主、佐野源左衛門常世は、痩せ馬に跨りいの一番に鎌倉へと参上したところ、六代執権の隣に鎮座していたのが、あの見窄らしい旅の僧侶でありました。

次の(二)は石田三成の三献茶のエピソードです。

(二)戦国末期、豊臣秀吉が若い頃、鷹狩りに出かけました。途中、のどの渇きを覚え、ある寺に立ち寄り、茶を所望されました。始めに出されたお茶は大きな椀にぬるいやや薄めのものでした。秀吉はもう一服お茶を所望したところ、今度は普通の椀にやや熱めの少し濃いめのお茶が出て参りました。秀吉は試しにもう一杯お茶を所望すると、小さな椀に濃くて熱いお茶が運ばれて参りました。

機の利いたお茶の点て方に感心した秀吉はいったい誰が点てたお茶かと尋ねると13才の石田三成でした。

喉の乾いている相手には、まず飲みやすい温めの茶をたっぷり出す。そして、喉の渇きが癒えた後は、熱い茶をゆっくりと味わってもらう。

時と相手の状況に応じた振る舞いが持て成しには必要です。必ずしもこうしなければならないという持て成しの不文律はないのだろうと思う。

私たち旅人を持てなすことを生業としているものは、このエピソードをどのように考えるべきでしょうか。

カニソムリエ